BAUSHの死にざまブログ

身近な死について思い当たったときに発動します。

2005-01-01から1年間の記事一覧

連れ立つて

毎日平均日本だけで百人死んでゐると聞くと、要するにデフォで集団自殺だ。 おてて繋いで幼稚園じゃあるまいし。 かと言つて野村秋介の自死が格段に孤高な訳でもない。殺の本質がテロなら自死はAIDSだ。さかまつげだ。テロは肉體を使つた政治だろ?一寸混亂…

天啓があつた。

政治家に人権はない。殺されても文句は云へない。それだけの覺悟はあつて當然だらう。市井の人が命を賭けてゐるのだから。政治家を終へた時に全ての財産を放棄すると云ふ法令も必要だ。 政治を世襲したら広域暴力団金一家と變はらない。成功した親には必ず失…

頭でつかちなだけのガキだな、こいつは。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/hujimura.html 後で書き足すかもね。

その生は彗星に譬へられる。西洋の皮相的な物質主義が日本に流れ込むのを見て、「革命にあらず、移動なり」(『漫罵』)とはき捨てるように云つたのが1893年。明治維新以降20数年にして現在と變はらぬ下らぬ情況*1だつたのだ。ミシマは變形後追ひだな。ドラマティック(戀愛)でドラスティック(死戀)でこその人生。戀に戀して敗れたが、死への戀は成就した。享年25歳。明治の25歳は決して若くはないさ。この文章「變」は二つで「戀」は五つだ。

世の中を食へるものと食へないものに分ける。

その後、旨いものと旨くないものに分ける。 まだ己は殘つてゐるか。己は旨いか不味いか。 健康だと旨いのか、なら微妙だな。 人類學者と數學者はどつちが旨い? 腦味噌がよく使はれてゐるので、數學者(の腦味噌)の勝ち(?)。 グルメは雜食で不味さうだな。 …

この人のもダンナさんのも苦手な部類のマンガで、もうこの人の新作を目にする可能性がないといふのは、ある意味で安堵である。と思つたらねこぢるyなどといふ名でいまだ増殖してゐる。世の中儘ならないものである。身を切る樣な痛み、心臓への痛み、免疫力低下、かうしたものと引き替へにしてまで読まねばならぬものか?まあ、あのやうな表現者が命根性薄汚くゲヘゲヘと力強く生きられても困りモンだ。死んでよかつた、などと云ふのではない。ただ、ねこぢるの死には嘘は無い。

Hideの後追いなどと取りざたされたがそれこそ名誉毀損、彼方(あっち)は事故死だらう。

ポール牧が飛び降りたらしいが・・・

小林まこと『1・2の三四郎』の最初の方で、ヒロインの志乃のアイドルが「マッカートニーならぬポール牧」というギャグがあった。その程度に笑って貰ッて充分な素材であった。 坊さんのクセに修行途中で投げ出してはいけない。もう、笑えない。逆位置の「ポ…

この時期にいつも

・・・・・・最初に考へたのは、「エイプリル・フールだろ?」だ。さうして衝撃を和らげながら、 あわよくば嘘であつてくれと思つた。願つた。ところが、ソースはどれもその凶報が事実であると告げてゐた。 この季節になるとどうしやうもなく泣けてくる。花…

「死」は祭

(もうそろそろ時効、というわけでもないが)アジアの津波の大量死でもイラクの大量虐殺でもいいが、人にとっては地獄であっても、微生物や蠅などにとっては、さぞや饗宴、そのまんま謝肉祭、腐肉パラディスであっただろう。地獄/天国の二分法は所詮自分たち…

生きざま

生きざまとは畢竟死にざまのことであろう。「死ぬ時には微笑むのが良し」と云へば、まるでマンガ『覚悟のススメ』であるが、さして遠いことでもない。 「煉炭」にあくがれる人たちよ。あなたたちは、死に際に微笑めるか(なんちう日本語か!)。That is a Ques…

2004/12/7の日記(笑)の文面を微妙に修正。

「死にざま」BAUSHの定義としては、「意識的に撰び取つた、死に際(ぎわ)の工夫」程度の意。 よつて、香田証生君などの死は「殺されやう」であつても、斷じて「死にざま」とは言へない。 勿論、災害による大量死も、BAUSHの云ふ「死にざま」とは關係ない。 し…