BAUSHの死にざまブログ

身近な死について思い当たったときに発動します。

死ぬ時には

死ぬ時には心に決めた相手と。乞ふる相手でなく、逆に憎む人間とでも、あるいは公益に反すると自らが目する人間とでもいいではないか。殘された縁者の気持ちを考へれば、自死に追ひ遣つたと揶揄されるよりも、自棄に成りながらも公益を尊重した死に樣だつたと敬遠される方が何層かましであらう。要人のテロなど企て實行したとて左程世の中は變はらないかも知れない。しかし魂を受け繼ぐものは必ずゐるものだ。生粋の殺害マニアであるミシマでさへフォロアには事缺かない。所詮無駄死にだけは避けたいものだ。

連れ立つて

毎日平均日本だけで百人死んでゐると聞くと、要するにデフォで集団自殺だ。
おてて繋いで幼稚園じゃあるまいし。
かと言つて野村秋介自死が格段に孤高な訳でもない。殺の本質がテロなら自死はAIDSだ。さかまつげだ。テロは肉體を使つた政治だろ?一寸混亂してるかな。

不思議なのは、自棄の道連れに幼児を選ぶこと。殺すべき大人だつたら他にいくらでもあらうに。

そして、連鎖反応を狙へ。

タイトルの「連れ立つて」とは自死のことだ。
みんな死にたいんだ、そんなことは誰でも知つてゐる。
「死の宰相小泉」に望むのは、それを踏まへて施政・發言を行つて貰ひたい。それ以上のことは望むだけ無駄だらうが。

天啓があつた。

政治家に人権はない。殺されても文句は云へない。それだけの覺悟はあつて當然だらう。市井の人が命を賭けてゐるのだから。政治家を終へた時に全ての財産を放棄すると云ふ法令も必要だ。
政治を世襲したら広域暴力団金一家と變はらない。成功した親には必ず失敗作の子供がオマケに付いて来る。2世(議員・藝人・お医者など)は財産運用(フロー制御に過ぎないが)のツールに過ぎない。むしろ子供は一切捨てるのが潔いか。J.J.ルソーに倣つて。子供より親が大事、當然だ。

その生は彗星に譬へられる。西洋の皮相的な物質主義が日本に流れ込むのを見て、「革命にあらず、移動なり」(『漫罵』)とはき捨てるように云つたのが1893年。明治維新以降20数年にして現在と變はらぬ下らぬ情況*1だつたのだ。ミシマは變形後追ひだな。ドラマティック(戀愛)でドラスティック(死戀)でこその人生。戀に戀して敗れたが、死への戀は成就した。享年25歳。明治の25歳は決して若くはないさ。この文章「變」は二つで「戀」は五つだ。

世の中を食へるものと食へないものに分ける。

その後、旨いものと旨くないものに分ける。
まだ己は殘つてゐるか。己は旨いか不味いか。
健康だと旨いのか、なら微妙だな。
人類學者と數學者はどつちが旨い?
腦味噌がよく使はれてゐるので、數學者(の腦味噌)の勝ち(?)。
グルメは雜食で不味さうだな。
山岡ゆうこは旨いだらうな。
添加物は少なめで菜食が一般的には吉か。
適度な運動は必要だが、屠殺前に疲労物質が殘るのは不可ないな。
Qちゃんは意外に旨いかも。
かの國では、旨くするため犬は苦しめて屠殺するらしい、が、
それは、ちょっと、いやだな。
人肉がグロだなんてのはきつと間違つた思ひこみだ。
藭の糧だ肉は。
だから、なるべく食はぬ方がいいに決まつてゐる。ほんとだよ。
でも、じいいんと旨くて、有難い。

今日はニュージーランドのラムでシチウを作つてみた。下味はクレイジーソルト。調味はシンガポール製のサテ・ペースト(タマリンドの酸味が!ココナツの香りが!)、トマト缶、ヨーグルト、あと根菜類。玉葱もNZだ。巻きの稠密さが特筆ものだつた。包丁の刃がはひらねええ。

食つたり食はれたりで命を繋いでいるのだなあと思つて何だかホカホカする、とか思へたらホンにええなあと思ふ。
「食ひもしないのに人を殺すなあ」とは言ひたい。勿體ないべさ。

この人のもダンナさんのも苦手な部類のマンガで、もうこの人の新作を目にする可能性がないといふのは、ある意味で安堵である。と思つたらねこぢるyなどといふ名でいまだ増殖してゐる。世の中儘ならないものである。身を切る樣な痛み、心臓への痛み、免疫力低下、かうしたものと引き替へにしてまで読まねばならぬものか?まあ、あのやうな表現者が命根性薄汚くゲヘゲヘと力強く生きられても困りモンだ。死んでよかつた、などと云ふのではない。ただ、ねこぢるの死には嘘は無い。

Hideの後追いなどと取りざたされたがそれこそ名誉毀損、彼方(あっち)は事故死だらう。